「性善説」「性悪説」といった言葉を、あなたも聞いたことがあるでしょう。
人間の本質が善なのか悪なのか、という考え方のことですね。
「私は性善説を信じているから、基本的に人のことを疑わないようにしているの!」
なんて言う人もいます。
しかし実は、「性善説」「性悪説」には共通した考え方があるって知っていましたか?
今回は「性善説」と「性悪説」の正しい意味と、2つの共通した考え方、そして「人間の善い行いを信じる」ことの効果をお伝えしましょう。
「性善説」と「性悪説」とは何だろう?
性善説は紀元前の中国の儒学者(東洋哲学の1つ)として有名な、孟子(もうし)が唱えた説です。
彼の言っていることをすごく簡単に、筆者なりにまとめると
性善説「人間の生まれ持っての本質は善である。悪い行いは生まれた後に、成長するにつれて獲得されることがある。しかしそれは汚染されているだけで、本質は善なのである」
となります。
対する「性悪説」とは、孟子の数十年後に活躍した荀子(じゅんし)が唱えた説です。
これも同じく筆者なりにまとめてみますね。
性悪説「人間の生まれ持っての本質は悪である。善い行いも成長するについて学べるようになるが、本質は悪である」
「性善説」「性悪説」に共通する考え方――「人間は善いことも、悪いこともする」
性善説、性悪説ともに共通しているのが、
「人間は善いことも、悪いこともする」
という捉え方です。
性善説では、人間の本質を善だと見なしてはいますが、悪の存在も認めているんです。
だから決して、「本質は善なのだから、信頼しても大丈夫と楽観視して、まるごと信じましょう」と言っているわけではないのです。
「人間の本質は善なので、善の行いができる土台がある」というニュアンスなのです。
同じく性悪説でも、「人間の本質は悪なのだから、誰しもどんなことをするかわかったもんじゃない! 四六時中疑ってかかろう!」と言っているわけではないのです。
こちらの場合は「人間の本質は悪く、弱い部分があるからこそ教育は大事」というニュアンスです。
いずれも、「人間のことを信じる・信じない」ということは論じてはいないのですよ。
ただ、性善説や性悪説を知った人たちだが
「みんな性質は善なのだから、信じよう!」
とか
「みんな性質は悪なのだから、気をつけないと!」
とか考えるのは自由です。
しかし重ねていいますが、
性善説だろうが性悪説だろうが、「人間は善いことも、悪いこともする」という考えは共通しています。
性善説も性悪説も、あなたが信じたいほう、しっくり感じるほうを信じてOKです。
「性善説」でも「性悪説」でもない考え方もある――「そもそも善悪って何?」
実は、性善説でも性悪説でもない考え方も存在しています。
それが「別に人間は善でも悪でもないよ」というものです。
そういう人たちは
「っていうか、そもそも善悪って何?」
という風に考えます。
たとえ話をしましょう。
もしも、あなたが大切な親友から「どうしても会って、話を聞いて欲しい」と言われ、大事な仕事をすっぽかして友人の元へ駆けつけ、仕事仲間に多大な迷惑をかけたとします。
しかし、あなたに会えたおかげで親友の心は救われた……。
あなたのした行為は「善」でしょうか? それとも「悪」でしょうか? いろいろな考え方がありそうですよね。
親友にとってはあなたは「善」で、仕事仲間にとっては「悪」?
それとも親友の存在自体が「悪」? それとも迷惑をかけられて嫌な顔をする仕事仲間が「悪」?
とすると、人間の本質が善であれ・悪であれ・善でも悪でもないのであれ、見方を変えればさまざまな「善と悪」が存在するということになります。
善悪の境界があやふやとなり、「善悪って何?」とも言いたくなるでしょ? これが「人間は善でも悪でもないよ」と考える人の意見なのです。
長い人生においては「性善説」「性悪説」といった言葉に惑わされずに、その都度何がいいことなのか、自分にとって優先すべきことはなんなのか、といった「正解のない善悪」を考えなくてはいけないのです。
他者の「善いことをする可能性」を見たほうが、私たちはずっと楽に生きられる
あなたが性善説を信じようとも、性悪説を信じようとも、「善悪なんてないよ」説を信じようとも、「人間は(その時々や見方によって)善いことも悪いこともする」――これだけは本当にその通りですよね。
このとき、あなたが他者に対して「悪いことをする可能性」ばかりに気を取られていると
「きっと悪いことをするんだから、疑ってかかってやる!」
という風にずっと気を張っていることになります。
ビジネスで同僚や部下に「きっとまたミスするに違いないから、見張ってやる!」
とか
恋愛で彼氏に「浮気をするかもしれないから、束縛してやる!」
とか
友人を家に招いた時に「大事な物を盗まれないようにしなきゃ!」
とか……。
こういう考え方も間違ってはいないのでしょうけど、ずっとこんな態度で相手に接していると、相手は良い気がせず、いい関係を築きにくくなってしまいます。ネガティブな雰囲気は、特に伝わりやすいものですから。
そもそもこんな考えで毎日過ごしていると、自分が気疲れしてしまいます。
でも「善いことをする可能性」のほうを信じれば、ずっと楽になれるのです。
たとえば、先ほどの例だとこんな風に。
「ミスするかもしれないけど、前回のミスで学んだから今回はいけるかも」
「浮気する可能性もゼロじゃないけど、束縛しても2人の関係が悪化するだけだわ」
「大事な物を盗むような人とは、はなから友人にはなっていないわ」
このように考えるほうがずっと心の負担が少ないですよね。
あなたが性善説を信じるか、性悪説を信じるか、「善悪なんてないよ」説を信じるかはまったくの自由です。
が、いずれにせよ「善いことをする可能性」に目を向けたほうが、人間関係も心のありようも、ずっとずっと快適に過ごせますよ。